昭和四十六年十月二十六日御理解 第二十五節          『信心は大きな信心がよい 迷い信心ではいかぬ 一心と定めい』




信心の大きな信心、大きな信心、此処で言われております、御事柄としての頂き方、御の字を付ける頂き方、これなどは大変大きな信心ですね、いろいろな難儀な問題であっても、その難儀な事柄を御事柄として頂くと言う、これは素晴らしい事ですけれども、御事柄の内容と言うか、大きな信心の内容と言うか、そう言う内容の中にですね。先日ももうこれは先日ではありません、一年も前でしょうか、学院に在学中に学院同志心安くなって、結婚ーーー本人達は貰ってもらいたい、また嫁にもらうと言う事で、男性の方の教会の所謂親先生がそれを許されない、それで女性の方の方が九州のほうでしたので、女性の方の親元の方え来ている、そしていろいろーーーそれに信心が無かったら問題ないのでしょうが、信心があるものですから本当に二人がこう言う仲になって、神様に対しても御無礼を所謂、呵責の念にかられて、教師を志して言うなら男女とも、男も女も学院に入ってお道の先生になろうと思うとったところが、やはり若い者ばっかりの、然も男も女も一緒に勉強しておる内に好きになったとか、好きになっただけでなくていろいろな関係も出来てしまったと、それで神様に対して愛済まぬと、と言う様な、本人達にとっては深刻、結婚はしたいけれども家からは許されない、まあどうしょうかとのお伺いでしたけれでも。
 純信心で行くと私共はこう言う様な事になってしまったと言う事が、神様にどんなに御無礼であろうかと言う事を非常に気に悩んで、それで私が高橋正夫先生の夫婦道と言う御本を読ませて頂いた時に、私が頂いた信心で夫婦道が御自分の体験を通して書いてある。私はそれを全部読みませんでしたけど、その高橋正夫先生の最後のところにもうその当時七十にもなられて、おられたでしょうかねその当時書かれたのは、もう少し若かったか知れません、になるけれどもこの道だけは自分でもはっきりこうとは言えないと言う事が書いてあった、ですね、特にこの性欲と言うことは、未だ自分にこの年になるけれども、はっきりした解決点を出してなかった、と言うところでお仕舞いになっとる、だから自分がその事に対して、どの様な行き方で信心で行くと言う事は、まだ分からないという訳です、説明は出来ないと言うところで、いろんな角度から夫婦道と言う御本がまだございましょうが出ておりました、その本を読ませて頂いたとき私は解決つかん筈はない、信心で頂くのですから大体ここの辺りはどう言う風に頂いたらよいだろうかと、私は思わせて頂いて読ませて頂いて、お願いさせて頂いたら、御の字を付ければよい、もうその時分から御と言う字を頂いておったと、今にして気が付くのですけど、只性欲と言うたらこれは何ですけども、御性欲と言う事であったら神様に頂いたとして、有難く頂くのですから決してそれがお粗末御無礼にも罰にもくすりにもなるものではないと、言った様な事を頂きましたのでその時のことを話しました。
結婚前にそう言う事があったと、言う事でもそれは神様の眼で御覧になれば、天地金乃親神様の眼で御覧になれば、決して貴方方が心に引っかかる様な心に、例えば不浄と感じる様な心の呵責に耐えかねる様な、信心しとる許りにそれをとやこう心配される必要はないですよと申しました、それを繰り返し繰り返しもっともっと深刻に質問されましたから、もうおかげでここのところだけは助かりましたと言うて、帰った若い先生方がありました、去年でしたかだから金光様の信心は大きいですね、信心は大きな信心がよい、ああしちゃいかんこうしちゃいかんとと言う様な事じゃない、それにしかも御の字を付けるならばそれは御事柄とであると同時にです、すべての事に御の字をつけて、頂くと言う気になったらそれは自分の心にも許されるし、神様はそれを責めなさる様な、それで例えば極端に言うならば、罰を与えなさる様な事は決してない。
 只わが心で犯す様な事もあれば払う事もあると言う様な御教えもあります様に、自分の心で自分達はこう言う事をしている、こう言う良くない事をしておると、良くない事に自分でしてしまっているところに、問題がある訳です、だからそれに御の字を付ける事になったら、それは有難く頂くと言う事になるのですから、心もはればれとして勿論神様が責めなさる様な事も、ないと言う訳なのです。
 まあそれとは少し意味が違いますけど昨日、このひと少しばっかり手遊びやら競輪、競馬と言うことが非常に好きなんで久振りにお参りして参りました、おかげでこの頃はもうそれをぷっつり神様に御供えして止めております、昨日お参りしてからですね、先生本当に最近合楽でお参りする度に御理解頂きますと、御事柄と言うのが御理解度に出て来るわけです。
 先日私は本当に神様にお約束してもう競輪なんかに行きませんと、してやらせて頂きますともう絶対よか事がなか、心に呵責する心が神様に違反しておる、神様の心に背いておると思いますから、心も苦しいかもう必ず損しよったところが先日はやっぱり昔の友達ら、その競輪に誘われてからやらして頂いた時に言うなら自然の働きがそう言う事になって来た訳です、自分か行こうと思った訳じゃないけれども、誘われたからですああこれこそ御事柄だと思って行ったと言うのですよ、ところが先生久し振りに儲かったと言うて、昨日は御礼か゛おそうなりましたと言うて、昨日その御礼に見えました。こげな事は不精者の仕事、こげな仕事をせんなりに例えば濡れ手に粟のつかみ取りの気になるなと仰る、濡れ手に粟のつかみ取りの様な事をしておる事が心にひっかかりなが、所謂信心を少しさせて頂いとるから、神様すみませんすみませんとお詫びしながら行きよった、時には本当に負けてしまったけれども、誘われたと言う自然のそう言う働きをです、そう言う自然の働きをですそう言う自然の働きを、ああこれは神様がこう言う働きを下さったんだから、これは一つ御の字をつけて、御競輪に御行かれた訳です、そしたら心がひっかからんもんじゃからあなた、ほんなごと買う度に貰ったこれは金どももちよっと持っていっとるなら、まだ当てるとでしたと言う事であった。
 だからね金光様の信心ちゃあ頂き様によっては競輪でもバクチでも同じですけれども、御バクチとして頂くなら、おかげ頂くかもしれませんね、御事柄、やはり御事柄には違いないのですから、しかも自分が行こうと思うたのじゃない、人から誘われたと言う自然の働きを、大事にした訳です、成り行きを大事に成り行きを本当に大事にされた訳です、皆さんどう思いますか、その事について、成程心には引っかからなかった、おかげとして、御競輪として行った、御の字をつけたもう楽しいかった、本当に神様に許されて競輪に行ってる、神様に許されてバクチをやってると言う気持ちですから心に一つも、曇りがないかげりがない、見事おかげで沢山の事じゃなかったけれども、大分儲かって帰って来たと言うのである、私もこれにはどうも返事の仕様がなかった、ほんなごつならね私がいつも成り行きを大事にせよと言いよるです、御事柄と言う事で行くんだと言う事ですから、こんな場合にはこう言う事になるだろうかと、思うてるのです、私もちよっと、それはおかげを頂いたなともう言えなかった訳です。けど矢張り事実はおかげを頂いたと言う事になりますけどね。
 その事をお取り次ぎさせて頂きましたら、今はあんなのはない様ですけれど、赤ちゃんにお乳をねだる時に乳首と言うのがありましよね、乳首を吸わせておくとそうするとおとなしくしとる訳ですよね、吸い寄るつもりですよあの乳首を頂くのですよね。
 ですから成程お道の信心はやはりそう言う頂き方をすると大きい、御地内をみだりに汚すなよと仰るけれども、天地の親神様がですお前は御地内に汚いものをこぼしたとか、お前は御地内に大小便で汚したとかと言うて、それを科めなさる様な事はない、けれどもやはり御地内をみだりに汚すなよといった様な、こう言う御教えは非常に最近は軽く見られておると言った気が致しますね、 それは軽く見られておる事はどうかと言うと、金光様の信心を大きく頂いた訳ですよ、言うならば天地金乃親神様がそう言うケチな事でとやかく仰る神様でないと言う事で、神様を大きく頂いとる、今日は私は大きな信心と言う事ですね、例えばどう言う場合であってもそれを大きく頂くと言うか御の字を付けて頂くと言う頂き方をすれば、心の呵責もないが、それをお気付けと頂くか言う事はなしに、と言う事ですけど大きな信心と言う事の一面を今日は聞いていただいとる、確かに金光様の信心はそうです、ところがですねそう言う例えば競輪の場合ですね御競輪として御事柄としてその事を頂いてです、成程それは心にひっかからんけん、それはおかげと受けたかも知れんけど、たしかにおかげを頂いて帰って来た、だからそれはおかげ頂いたのうと言えなかったけれども、御事柄と言う事を使い、成り行きを大事にしたと言われたら、私も一言も言える事が出来んのですよ、そこで神様にその事をお届けさせて頂いたら乳首をいただいた、乳親の乳を頂いたならばそれは必ず血にもなれば肉にもなる、訳なんですねところが乳首ではです、やあやあ言うて乳を求めて泣いている児に、その乳首をくわえさせると、泣きやむのですせがまん様になるのです、けれどもそれはです、悪いくせになってもうそれを取るには大変骨がおれますよね。
 私の長女です豊美は勝彦が出来る頃まで乳首を吸わせておりました、それであちらにありませんから内地からもう十回位、なくしますからね、当時ありましたから送って貰った、どうしても止めん、もうちゃんと自分の枕許に置いてやすむのです、そして自分でころころ手さぐりしながら、こうやって自分で飲みよる、そして遊びに行く時にはちゃんと首にかけとる、もうそれをはずすちゅうと火のごとなって泣くです、それでもこれは止めさせにゃいかんちゅうて、家内が一日二日やめさせましたけど、晩乳首がないものだから、かくしてしまってないものだから、寝ながらころころやって探しよるとですよね、それを家内が見て余りむぞうらしかと言うてから又、持たせたと言う位難しかいです、だから乳首でその時はおさえと言うかまあ、まぎらかしにはなるけどね、けれどもそれは血にも肉もならない、だけではない悪いくせが付くと言う事です、私はその事を感じましたね、如何に成り行きを大事にすると言いましても、それを例えば御競輪と言うてもです、それは神様は責めなさる事は決してない、そう言う頂き方になればけれどもそれは一つも、私どもの心を楽にして行くとか又は信心をすすると言う事には全然それは、役に立たないと言う事。
 血にも肉にもならないと言う事、してみるとそれは只おかげ頂くのとばっかりは言わんで済む、その事を伝えさせて頂く、ははあやっぱり御事柄でもそげな事はいけませんですね、と言う事で帰られたんですけどね、馬鹿らしかです血にもならねば肉にもならん、だからむしろそう言う悪い癖と言う様な競輪なんかバクチをする人はです、いわゆる止められん様になって自分の大事な仕事まで、放つておいてそして内は火の車であっても、それこそそれこそ家内のものであろうが、子供の物まで持って行ってでもバクチを打ちに行こうと言う事になって行くのですから、それが良かろう筈がありません、所謂悪い癖になってしまうのです。
その事がけれども御の字をつけてゆけばです、御事柄として頂けばです、たしかにおかげは受けるだろうけど、おかげを受けると言う事がかえって自分と言うものを窮屈にして困った結果にして行くと言うことになる、私は今日は信心は大きな信心が良い確かに金光様の信心は大きいです、先程から学院生のお取り次ぎさせて頂いてその事でもです、そこんところがわかったら今まで心の呵責で苦しんでおったのが、一遍に一掃されてしまう程しに有難い道であります。 かと言ってそれがです、なら悪癖と言うか悪いくせになり言うならば人間として、考えて見た時にです、まともな生業はせずにバクチの方に身を入れると言った様な事になったのでは、これは神様は責められはせないが、人間としてやはり屑になってしまわなければなりません、バクチ等打つ人間はもうあの人間はもうつまらんとそう言うでしょう、人間は良いけれどもあれをやんなさるけん駄目だと言う事になってくるのです。
 けれども神様はそれを責めなさるとか科めなさると言う事はない、と言う程しに大きな信心だから行きづまりがないと言う位ですね、大きな信心行きづまりがない、こう言う行き方はどう言う事かと言うとですね、これを仏教の言葉で言うとですね、もう閻魔さまが亡くなったと言う事を言うです、今のその行き方はだから素晴らしいですよね、だから例えば死んで閻魔さまの前に出た時にね、と言われんで済むわけです、心に呵責が一つもない、これは大変な事ですね、今私が申しております事は信心の、それを自分の心に呵責を持っておるから、それが閻魔さまに責め立てられなければならない、いわゆる閻魔さまが持って居られる、何とかの鏡にちやんとそのバクチを打って苦しんだ事が映るわけです。
 ところがバクチそのものを御事柄として頂いて一つも心にさわってないですからもう鏡には映らないわけです、そうでしょうが、だからと言ってですお道の信心はね、例えて言うと道徳的にと言うとね、人倫、道徳の行き方から行くと、私どもの良心と言うものが苦しむまあ例えて申しますと、今日は極端な話しばかりしますけど三角関係と言った場合ですね男女の、言うなら姦通罪と言った様な事、それは良心の呵責に苦しむからそれが罪になるのです、此れは信心の上ですけれどそれをもしですね、御事がらとして頂ける程しの事だったら三角関係や四角関係だって決してめぐりを積むとか、おつげを落とす様な事は決してありませんよ、所謂私の行く手に閻魔様がなくなる程しの頂き方があるわけです、だからお道の信心がその道徳的なものの又は、修養と言ったものではないと言う事がわかりますね、非常にその辺のところの巾が広い、所謂大きいですかと言うてそれを私が皆さんに宣伝しよる訳では決してないです、
例えばそれはどう言う事かと言うと、自分の信心をさらさら信心を伸ばすと言う事から、人間が出来ると言った様な意味の事、人間と身代と健康と言った様な意味に於いての人間ですね、あの人は人からですね、あの人は信用ならんとか、あの人はあのくせがあるとか言う事になって、人間同志からはそれは軽く見られたり軽蔑されたしても仕方ない事になります、けれども神様がそれを責めなさると言った様な事はない言うならば私どもの信心、さして頂いておる、言うならば閻魔様にそれを記録されておって、そのために苦しみの御霊にならんならんと言った様な事はない、だから私ども人間いつどう言う事にそれこそ自分で自分の心を犯す様な事がないとも限りません、言うなら誘惑をされるその誘惑に負ける、負けたからと言って苦しんではならぬ、苦しむ必要はないけれどもそれが決してよい事ではない、自由無涯といった様な自由無涯と申しますかね、金光様の信心はそう言う意味に於いて自由無碍の道である、その証拠には酒をのんじゃならんとか妻帯してはならんとか、肉食してはならんとか言った様な事ではなく、もうそれこそ自由無碍の道であります、金光様の御信心はそう言う意味で、金光様の信心は大きいと言う事になります、けれども私ども信心修業させて頂いておる者は、やはり力を受けたいのです、徳を受けたいのです、だから力を受けたいのです、徳を受けたいならいくら御の字を付ければ良いと言うて、御競輪と言ったり、御三角関係になったんじゃです、これでは力は受けられません、それは丁度乳のみ子に乳首を与えている様なものですから、力になるはずもありません、血肉になる筈がないのでしょう、だからそう言うところはです、私どもがね本気で修業させてそこのところを、例えば成り行きを大切にすると言うことと同時にです、自然の働きそういう成り行きの中に、これは誘惑だと言うものはです、それにたいけつして行くだけの力を養わなければいけません、悪いことでも、人間が言う悪い事ですよ、バクチとか三角関係とか人間としては愈々悪なんです、人間としては許されない事なんです、けれども神様の道から言うと、それは決して心に心に呵責される、心を悲しめる様な事はいらんと、けどせっかく信心によって力を得ようとする者としては、そうゆういくら御成り行きとして、受けるのではなくてその御成り行き対立が必要だと言う事、言うならば誘惑をしりぞける、誘惑に勝ち抜いて行くと言う、その力それが力なんです、食べたいけん食べる、したいけんする、それもやはり御の字をつけて神様頂きますと言えば、さわる事なしと仰る様に神様頂きますと言うてバクチをする、人間としてはそう言う事はいけない事でも、頂きますと言うてすれば良いと言う事になればです、成程心の呵責はないだろう、神様はそれを責めなさる事はないだろうけれども、それによっておかげを頂く事はできません、それによって力を頂いて行くと言う事は出来ません、それによってそれが血にも肉にもなりません、それは乳首をしゃぶっておる様なものだと言う事なのです。
 今日は大きな信心と仰られたその大きな信心、金光様の信心がこの様に大きな信心だと言う意味の事をね聞いて頂いたのですよ、まあ極端に言うとまあデパートで品物をお金も払わないで、持って来ると言えば泥棒になります、けれどもお前は泥棒したからと言うて、神様は決してとがめなさる神様ではないのです、それを神様の御物としてこうやって持って来る、本当にそこがわかるなら絶対それは罰にならんです、神様の方から言えばですよ、けど人間の道にはやはり刑法なら刑法と言うのがあって、触れるからお前はデパートの物を万引きしたと言うて、つかまえられたり又は懲役に行ったりせなければならん事は勿論です、けれども神様がせめなさる様な神様ではない、今日は極端なとこですから頂き損わん様にして下さいよ、先生があげん言いなさったからと言うて、デパート行ってガバッと持って来れば、どんこんされんですからね、しかし大きな信心と言う意味で私は申しております、金光様の信心は本当にそう言う意味で広々としたしかもそこにはね、閻魔さまなんて絶対だからなくなるわけです、仏教で言う閻魔様なんて絶対だからなくなるわけです、仏教で言う閻魔様と言うのは、金光様にはだから閻魔様がないわけです、けれどもそれなら自分はあげな悪いこと、したけんでと言って心が悲しみ抜いておるとするなら、やはり閻魔様はある訳ですよ、そうでしょうか、金光様の信心がないと言うのではなくて、自分の心で  たり閻魔様をなくしたりする事が出来る、閻魔さんのござらん世界がいわゆる大きなせかい、大きな信心なのです、かと言うてそう言う野放図に金光様の信心は有難い、御の字さえ付けとけば良いかと言うてです、いったんではそれは人間としての値打ちはとしてもです、神様は御信用と言うかね、御神徳と言うか力を受けて愈々広大無辺になれて行くと言う、おかげを受けられない事、良く信心をドライに考えて、と言うのがある意味では大きいのです、割り切って考える成程ドライであるならば、心にひっかかりません。
 今私が立っておるところはそこなのです、けれども信心がドライになったら信心はそこまででおしまいです、伸びません、なぜって血にも肉にもなってゆきよらんからです。
例えばそれが御成り行きであろうが、これは御事柄であろうけれども、それが例えば競輪の誘いであろうが、誘惑であったりすればこれに打ちかつだけの力を養って、金光様とそこで辛抱しぬくと言う事、そこにです辛抱の徳と言うか辛抱の力が生まれて来る、そして例えば乳首でも与えて貰いたい程、の場合であっても本当に神様か本当の乳を与えてくださる、おかげを頂かせて貰わなければつまりません、金光様の御信心はだから人倫とか道徳とかの道ではないと言う事、何処までも金光様の御信心は閻魔様を抹殺しうるだけの力を持った宗教だと、言う事になります、信心が分からせてもらえればね。
 そこで私どもが本気で信心させて貰う修行でもさせてもらう、今上野先生が断食に入っとります、もう本当にお道の信心でそう言う表業なんか、いかんて、もう断食しとれば御用も出来んし自分だけはそれでよかろうばってん、いかんとこう思うです、けれども本当にそれは断食でもさせて頂く、口に物を入れないと言う事だけ、大変な辛抱がいる訳です、だからそう言う辛抱とくり窮屈な酔うですむけども、信心が小さいごとあるけれどもやはりこのくらいの辛抱もできんごとあっちゃ、金光様の辛抱は出来んです、小さいごとあるだからだから自分の心をですね、矢張り小さくも大きく出来るだけの信心、大きく頂かんならんところは大きく頂かしてもらい、又窮屈な位に小さく行く様なおかげを頂かしてもらい、今日は大きな信心と言うところだけに焦点をおいて聞いて頂きました。
 どうぞ頂き違えん様に一つ頂いて、まあ結論して言うならそう言う場合に自然の働きと言うか成り行きととの対決と言う事、それがもし誘惑であるような場合は、それと対決して力を受けて行くと言う事が、有難い信心を進めてゆく事だと言う様な風に頂いて貰ったらどうでしょうかね、どうぞ。